浮遊人のコトバ
「ポートレートというもの」
2010-04-01 創刊号
ポートレートのことについて話したい。
その理由は、人間に一番近いのは人間。
どんな写真も究極は、人間性が現れる。ぼくは、今少し人間も撮り、人間を知ることが自分を知り、それが他の写真にも影響し、両々相挨ったバランスの良い成長が期待できるのではと考える。この頃、ぼくは電車に乗る度に、「日本人の顔は、貧しくなった」とよく思う。それは、写真的にという意味ではなく、人間らしい社会人としての良い顔にめったにお目にかかれないということである。
映像というものは、恐ろしいもので、テレビでの映像が人々のいかにとりつくろっても隠せない人間像を見せるが、最近のように虚像がはがれ落ちた貧しい政治家の顔が頻出する番組に食傷しているところへ、無責任な官僚やリーダー格の社会人まで、公私見分けのつかない情けない顔も見あきた。見あきたといえば、もちろん人様のことを言えた義理ではなく、自分の貧しく老いゆく顔には特にうんざりで、近頃は鏡をまともに見たことがない。
混んだ電車は、いやでも間近でまじまじと観察することになるが、貧しさ、生気のなさは若い男女にも及び、良くなる気配は感じられない。といって、ぼくは謹厳実直、聖人君子のような(一応は認めるが)、そんな味気のない顔が良いなどといっているわけではない。偏差値だけが高く、知識が人間としての知恵になっていない自己中心主義の顔もいただけない。物知り顔でインテリタイプが多いが、正義がわからないから冷ややかで魅力がない
良い顔とはといっても、とても一口では言えないが、人間としての豊かさ人間らしい魅力ある顔を持った人。言葉をかえていえば、司馬遼太郎のいう高貴な子供の心を終生その精神のなかに持ち続けている顔。良い音楽を聴いて感動するのは自分の中のオトナでなく、コドモの部分である。そんな部分の広がりが学問において、なみはずれた仮説を立てる能力にもなり、もちろんアートをはじめすべてのクリエイティビティの源泉である。
また人の痛みががわかる人間といってもいい。教養とは、人の心がわかること。そんな人々の顔には、豊かで頼もしい人柄がかい間見られるであろう。こんなことをぼくがことさらに感じるのは、ものを書きながら日本ばかりでなく財界の多彩な歴史的な人物の顔写真に接するチャンスが多いからであろうか。
「フェイク」ということ
ぽくはこうした日々を感じながら、ふと「フェイク」(Fake)という言葉を思い出した、それは、本物のルポルタージュ映画を撮り、写真を見る目も確かな羽仁進氏の講演後の彼と早田雄二氏を交えての私的な雑談の中にあった。もう20年以上も前の話である。
「フェイク」は直訳すると、ごまかし、いんちき、まやかしもの、つくりごと、虚構といった意味になるが、人間は誰しも写真を撮られる時、よりよく撮られたいために、ある種のフェイク、表情を装い、何となくポーズをつけたりする。でも、小さな女の子が夜中にこっそり一人で起きてお化粧をするといった行為は、これは観客のためにするものでなく、自分が自分のために演技することである。こうなると、もうフェイクの域ではない。優れたファッション写真家は、成熟した女の中から、それを引き出すのだという。もちろん、フェイクを逆手にとり、これを強調したユーモアのある写真もおもしろいが。
大都会というものは、ある意味ではフェイクの山みたいなものだろう。近代的な大都市の顔は、ハダカの王様のようなインチキな宝石をつくって首につけてみたりするが、翌日にはもう色が落ちたりあせたりしているようなところがある。フェイクというのは、ぜったい隠しおおせないもの、紙で作った王冠のようなもので、それはすぐシナッとなっでしまう。またシナッとなるからゴミになって、逆に救われもする、
東京もそうではないだろうか。非常に通俗的な世界、人生そのものにもそんな部分がなきにしもあらず。大目にみられるようなインチキ、許されるフェイクもするわけだが、都会人はそんな都会人のなかに、真実のようななものを見る瞬間がある。またそんなわずかなキラメキをとらえて行く写真家もある。ぼくはそんな写真も味わいがあって好きだ。
しかし、「当今の日本の教育、しつけの悪さは、許せないフェイクが多過ぎる。学校もだが親の自覚の無さ、無責任さはどうしようない。」
「男たち一家の柱も揺らいでる。<婦唱夫随>も困ったものだ。このままでは、アメリカ並みの凶悪犯罪がやがて日本でも起きるだろう」といった話が終わりになり、お互い悲憤慷慨?、同感したが、それは遂に今日現実のものとなってしまった。